新・エンネアデス

プラトニコスが日々の考察を書き綴った、54の小論文

愛について Περι φιλια και ερως και αγαπη #1

 ごく一般的なところから話をすすめると、男女の友情は成り立つか、というありふれ た問いがある。

 

この問いには暗黙の前提があって、ひとつは男女が親しくなると淡い恋愛感情が生まれるということ、それからもうひとつは、男女間の恋愛感情と友情は両立しない、ということである。

 

現に親しい人間関係にある異性を多く持っており、それらを友人と呼ぶ人はそこらじゅうにいる。

しかしわざわざこの問題が取り上げられるのは、ひとたび恋愛の情熱が生じると、友愛の情がそれになりかわってしまうか、あるいは友情が消え去ってしまうと、多くの人が考えるためだ。

 

恋愛感情と友情が成立しないと主張するならば、それらが両立しないことを証明しなければならない。

 

 

 

 ところで、われわれが男女間のそれを含めて気軽に愛を語るようになったのは、愛を積極的に評価する、キリスト教的な西洋の価値観が入ってきたためだと私は考えている。

 

 

 

 キリスト教は、愛 (αγαπη:アガペー)をもって、神の本質とする。これは、いっさいの見返りを求めず、どれほど無価値な人間でも平等に愛する、神から人間にむけられた不朽の愛である。

 

キリストを人間のもとに遣わし、十字架の上で殺したのも、この愛のためである。

 

 

 

 しかし、愛はこれだけが全てではない。キリスト教の教えは、ギリシア的な愛のとらえ方にのっとり、以下のものから神の愛を区別した。

 

ひとつは友愛(φιλια:フィリア)である。これは、対等なもの同士がたがいに向けあう好意で、友人のために何かしたいと思うのは、この愛が働くためだ。

 

 

 

 しかし、フィリアが生じるのは、なにも友人同士にかぎったことではない。

 

商売上の仲間や、行きつけの居酒屋の主人、クラスメイト、旅先で出会った人でさえ、フィリアで結ばれているのだ。

 

行きつけの店の主人がサービスしてくれるのは、まさしくフィリアのためである。

 

さらには、詐欺師や泥棒のような悪党どもの集まりまで、フィリアで結ばれている。

 

何かをなそうとするときは、それがたとえ悪事であれ、仲間同士がよくまとまっていなければ、決して成し遂げられないのだ。

 

したがって、このようになんらかの目的や利益をあてこんだ友愛は、有益ではあるものの、道徳的になんら褒めるべきところがない、善悪無記(αδιαφορα:アディアフォラ)なるものと言えよう。

 

アリストテレスは、以上のような友情を、「実利の友情」と呼んでいる。

 

 

 

 もうひとつは、「快楽の友情」である。親しいもの同士で酒を酌み交わしながら語ることは、快楽を生む。

 

趣味の集まりなどでこういった友情はみられるが、この友情は相手そのものより、相手の持つ属性ゆえに生まれるものだ。

 

この点は「実利の友情」と等しい。

 

 

 

 さらにアリストテレスは、こういった友情を超えて、よき人々のみが享受する、「善の友情」があると考えた。

 

善の友情こそ、ほんとうに見返りのないもので、それを向けるべき理由が相手のうちにあるのだ。

 

悪しきひとびとは、相手になんらかの見返りを期待し、友情を結ぶべき理由をみずからのうちに持つ。

 

そのため、彼らが真に美しい友情をもちえることは、決してないのだ。

 

 

 

 このように、フィリアには三つの種類がある。これらの友愛を他と分かつ特徴があるとすれば、それは、選ばれた相手にしか向けられない、ということだ。

 

もっとも程度の低い「実利の友情」は、実利をもたらさない相手とは生まれない。

 

また「快楽の友情」も、一緒にいて何もおもしろくない人とは成り立たない。

 

「善の友情」は、それを向けるべき理由が相手のうちにあるため、友情を結ぶべき理由のない人や、利益をあてこんで近づいてくる者とは結べないのだ。

 

 

 

 したがって、すべての人間にむけられる神のアガペーは、友愛と相容れないものだ。

 

むかし、「神はすべての人を平等に愛すると言ったけれども、それは誰も愛していないのと同じなのだ」と言った人がいる。もし彼が神の愛をフィリアと同じようにとらえているならば、うなずけないこともない。