新・エンネアデス

プラトニコスが日々の考察を書き綴った、54の小論文

魂の不死について Περι αθανασια της ψυχης

「先生は魂の不死を信じますか」

 

その時私たちは研究会を終え、H先生とともに、K大学の正門からM駅へむかって歩いていた。

その道すがら、一緒に出席した先輩がふと先生に尋ねた。

 

「ぼくは先生が魂の不死を信じているとうかがいました。本当なんでしょうか。」

 

私はふとH先生の方を注意深く見やり、どんな言葉が出てくるか待った。

 

魂の不死。人々が科学的な世界解釈に満足するようになるまで、多くの人々の関心はこの問題に集中していた。今でもそれは変わらないのかもしれない。

 

およそ学問上の知識は何であれ経験を出発点とするもので、経験しようのない死後のことなど問題にできないはずではないか。哲学も含めて・・・

 

そのとき私は先生が魂の不死を素朴に信じているとは思えなかったし、神学者のような奇特な人種をのぞけば、学識のある人間にふさわしい信念ではないとも思っていた。

 

そう思うときには、自分の立場をすっかり忘れていたのだけれども。

 

先生はしばらくうつむいたのち、こう言った。

 

「人が死ぬと、思い出が残るでしょう。のこされた人が持っている故人の思い出、記憶といったものが、魂にあたるんじゃないかと思います。」

 

拍子抜けするような答えだった。

 

あまりに通俗的な話だったし、なぜ思い出が魂になるのかも分からなかった。

 

「プラトニコスは、魂の不死を信じていなければならないと思うんですよ」

 

そんな意味のことを先輩は言って、先生から話を引き出そうとしていた。しかしその後先生が何を話したかはよく覚えていない。

 

そうこうしているうちに駅前の喧騒が近づき、地下鉄の入り口で先生を見送った。

 

その後私と先輩はせまい路地を歩き、手頃な店を見つけて暖簾をくぐった。

 

生ビールをあおりながら、いつもの通り哲学の専攻の話をした。

 

君は魂の不死を信じているかと、私にも質問が回ってきたが、私は信じることができないと答えると、先輩は言った。

 

「それなら君はプラトニコスじゃないね」

 

私はとっさに反論しようと試みた。しかし魂の不死を信じない者が真のプラトニコスでありえるのだろうか。

 

その時の考えでは、なぜだか私はイデアの存在なら信じることができたた。しかし、魂の不死など私には信じられない。

 

キリスト教徒、あるいはその他の人々が説く、魂の不死のうそ臭さ。彼らが夢見る彼岸の世界。自分の理性と誠実に向き合えば、だれだってそんなものを認める気にはなれない。私はそう思っていた。

 

(続く)