新・エンネアデス

プラトニコスが日々の考察を書き綴った、54の小論文

愛について Περι φιλια και ερως και αγαπη #2

 さて、以上で友愛については説明されたので、男女の愛について語ってみよう。

 

男女の愛は、ギリシア語でいうところの、ερως(:エロース)という言葉が対応する。

 

エロースは、みずからに欠けているものを求める欲求である。

 

プラトンは、エロースの成り立ちを、このような神話を持ち出して寓話的に語った。

 

美の女神アフロディテが生まれたとき、その祝宴にまぎれこんだ半獣ポロスが酔いつぶれたのをみはからって、貧しさの神ペニアーが交わった。

 

ポロスは豊かさを自らの特性とし、知略にたけている。

 

そして身ごもったのがエロースである。エロースは美の女神の祝宴で生まれたので、生まれつき美しいものを求めるようになった。

 

エロースは、つねに貧しく困窮している母ペニアの性質を受け継ぎつつも、父ポロスの性質により、美しいもの・よきものを策を弄して狙うようになったのだ。

 

エロースは欠乏と豊富の中間にある。

 

決して困窮しつくすことも、富みつくすこともないのだ。

 

だからこそ、みずからに欠けているものを、つねに求めようとするのである。

 

 

 

 男女の間になぜエロースが働くかは、もうひとつ別の寓話からも説明できる。

 

太古のむかし、人間の性は三つあった。

 

男性と女性。そしてもうひとつが、両者があわさった性である。

 

第三の性を持つ生き物には、まるい球体のような胴体に、手足が4本ずつ生えており、転がるようにして動いていた。

 

ところがあるとき、この生きもの(アンドロギュノス)の体はまっぷたつに切り離されてしまった。

 

切り離された半身は、たがいにもう一方の半身を求めてさまようになった。

 

異性をもとめる人間こそは、この半身の末裔なのだ。

 

 

 

 これらの神話を総合すると、恋愛感情とは、みずからに欠けた部分を手に入れようとする感情なのである。

 

以上はあくまでプラトンの教説であり、現実の恋愛関係をそのまま説明しているというのは無理があることだろう。

 

しかし、恋愛感情は友情と異なり、相手をみずからの手中にいれようとする働きがあることは、だれもが納得するのではないか。

 

むろんなんらかの理由で、相手をそのままにしておきたいと願うことも、決してありえないことはない。

 

たとえば、恋愛の対象が自分にとって不釣り合いであるように思えるときや、対象にべつの相手がいるときなどがそうだ。

 

実はそのような例が示すのは、手に入る可能性がない対象には、エロースははたらかないということなのだ。しかし、少しでも手に入る可能性が見えてくると、ふたたび何としても手に入れたいという欲求が頭をもたげてくる。

 

 

 

 ここでそろそろ本題に移ろう。ではなぜエロースとフィリアは両立しないとみなされるのだろうか。

 

この問題について論じるために、先に述べたフィリアとエロースの違いを明らかにしたい。

 

その違いは、エロースにはフィリアのような相互性がないことだ。

 

フィリアは、自分が相手に好意を寄せるだけでなく、相手もまた自分に好意を寄せていなければ成り立たない。

 

たとえば、もしあなたがある男を友人だと思っていても、その男があなたのことを友人とみなさなければ、あなたとその男が親しい友人関係にあるなどと、なんぴとも認めないであろう。

 

いわば「片思いの友人」などという関係は、いまだかつて存在したためしがない。

 

反面、エロースには、好意を寄せる相手の事情など一切関わりがない。

 

そのため、このような愛にはしばしば暴力性が見られる。

 

友愛をのぞき、愛情はいかなるものでも一方的で、たとえば親から子への愛であってもそれは変わらない。

 

親の愛でさえ、ときには厭わしいものだ。

 

愛について Περι φιλια και ερως και αγαπη #1

 ごく一般的なところから話をすすめると、男女の友情は成り立つか、というありふれ た問いがある。

 

この問いには暗黙の前提があって、ひとつは男女が親しくなると淡い恋愛感情が生まれるということ、それからもうひとつは、男女間の恋愛感情と友情は両立しない、ということである。

 

現に親しい人間関係にある異性を多く持っており、それらを友人と呼ぶ人はそこらじゅうにいる。

しかしわざわざこの問題が取り上げられるのは、ひとたび恋愛の情熱が生じると、友愛の情がそれになりかわってしまうか、あるいは友情が消え去ってしまうと、多くの人が考えるためだ。

 

恋愛感情と友情が成立しないと主張するならば、それらが両立しないことを証明しなければならない。

 

 

 

 ところで、われわれが男女間のそれを含めて気軽に愛を語るようになったのは、愛を積極的に評価する、キリスト教的な西洋の価値観が入ってきたためだと私は考えている。

 

 

 

 キリスト教は、愛 (αγαπη:アガペー)をもって、神の本質とする。これは、いっさいの見返りを求めず、どれほど無価値な人間でも平等に愛する、神から人間にむけられた不朽の愛である。

 

キリストを人間のもとに遣わし、十字架の上で殺したのも、この愛のためである。

 

 

 

 しかし、愛はこれだけが全てではない。キリスト教の教えは、ギリシア的な愛のとらえ方にのっとり、以下のものから神の愛を区別した。

 

ひとつは友愛(φιλια:フィリア)である。これは、対等なもの同士がたがいに向けあう好意で、友人のために何かしたいと思うのは、この愛が働くためだ。

 

 

 

 しかし、フィリアが生じるのは、なにも友人同士にかぎったことではない。

 

商売上の仲間や、行きつけの居酒屋の主人、クラスメイト、旅先で出会った人でさえ、フィリアで結ばれているのだ。

 

行きつけの店の主人がサービスしてくれるのは、まさしくフィリアのためである。

 

さらには、詐欺師や泥棒のような悪党どもの集まりまで、フィリアで結ばれている。

 

何かをなそうとするときは、それがたとえ悪事であれ、仲間同士がよくまとまっていなければ、決して成し遂げられないのだ。

 

したがって、このようになんらかの目的や利益をあてこんだ友愛は、有益ではあるものの、道徳的になんら褒めるべきところがない、善悪無記(αδιαφορα:アディアフォラ)なるものと言えよう。

 

アリストテレスは、以上のような友情を、「実利の友情」と呼んでいる。

 

 

 

 もうひとつは、「快楽の友情」である。親しいもの同士で酒を酌み交わしながら語ることは、快楽を生む。

 

趣味の集まりなどでこういった友情はみられるが、この友情は相手そのものより、相手の持つ属性ゆえに生まれるものだ。

 

この点は「実利の友情」と等しい。

 

 

 

 さらにアリストテレスは、こういった友情を超えて、よき人々のみが享受する、「善の友情」があると考えた。

 

善の友情こそ、ほんとうに見返りのないもので、それを向けるべき理由が相手のうちにあるのだ。

 

悪しきひとびとは、相手になんらかの見返りを期待し、友情を結ぶべき理由をみずからのうちに持つ。

 

そのため、彼らが真に美しい友情をもちえることは、決してないのだ。

 

 

 

 このように、フィリアには三つの種類がある。これらの友愛を他と分かつ特徴があるとすれば、それは、選ばれた相手にしか向けられない、ということだ。

 

もっとも程度の低い「実利の友情」は、実利をもたらさない相手とは生まれない。

 

また「快楽の友情」も、一緒にいて何もおもしろくない人とは成り立たない。

 

「善の友情」は、それを向けるべき理由が相手のうちにあるため、友情を結ぶべき理由のない人や、利益をあてこんで近づいてくる者とは結べないのだ。

 

 

 

 したがって、すべての人間にむけられる神のアガペーは、友愛と相容れないものだ。

 

むかし、「神はすべての人を平等に愛すると言ったけれども、それは誰も愛していないのと同じなのだ」と言った人がいる。もし彼が神の愛をフィリアと同じようにとらえているならば、うなずけないこともない。

 

 

 

 

 

 

 

 

魂の不死について Περι αθανασια της ψυχης

「先生は魂の不死を信じますか」

 

その時私たちは研究会を終え、H先生とともに、K大学の正門からM駅へむかって歩いていた。

その道すがら、一緒に出席した先輩がふと先生に尋ねた。

 

「ぼくは先生が魂の不死を信じているとうかがいました。本当なんでしょうか。」

 

私はふとH先生の方を注意深く見やり、どんな言葉が出てくるか待った。

 

魂の不死。人々が科学的な世界解釈に満足するようになるまで、多くの人々の関心はこの問題に集中していた。今でもそれは変わらないのかもしれない。

 

およそ学問上の知識は何であれ経験を出発点とするもので、経験しようのない死後のことなど問題にできないはずではないか。哲学も含めて・・・

 

そのとき私は先生が魂の不死を素朴に信じているとは思えなかったし、神学者のような奇特な人種をのぞけば、学識のある人間にふさわしい信念ではないとも思っていた。

 

そう思うときには、自分の立場をすっかり忘れていたのだけれども。

 

先生はしばらくうつむいたのち、こう言った。

 

「人が死ぬと、思い出が残るでしょう。のこされた人が持っている故人の思い出、記憶といったものが、魂にあたるんじゃないかと思います。」

 

拍子抜けするような答えだった。

 

あまりに通俗的な話だったし、なぜ思い出が魂になるのかも分からなかった。

 

「プラトニコスは、魂の不死を信じていなければならないと思うんですよ」

 

そんな意味のことを先輩は言って、先生から話を引き出そうとしていた。しかしその後先生が何を話したかはよく覚えていない。

 

そうこうしているうちに駅前の喧騒が近づき、地下鉄の入り口で先生を見送った。

 

その後私と先輩はせまい路地を歩き、手頃な店を見つけて暖簾をくぐった。

 

生ビールをあおりながら、いつもの通り哲学の専攻の話をした。

 

君は魂の不死を信じているかと、私にも質問が回ってきたが、私は信じることができないと答えると、先輩は言った。

 

「それなら君はプラトニコスじゃないね」

 

私はとっさに反論しようと試みた。しかし魂の不死を信じない者が真のプラトニコスでありえるのだろうか。

 

その時の考えでは、なぜだか私はイデアの存在なら信じることができたた。しかし、魂の不死など私には信じられない。

 

キリスト教徒、あるいはその他の人々が説く、魂の不死のうそ臭さ。彼らが夢見る彼岸の世界。自分の理性と誠実に向き合えば、だれだってそんなものを認める気にはなれない。私はそう思っていた。

 

(続く)